人魚の涙 前編
厚い黒雲が空を覆い、風が吹き荒れる。容赦ない高波がその船を絶え間なく襲っていた。 外交から戻ってきた船はそれまで順調な船旅だった。あと十数qで国に着く、そんな最後の最後で巻き込まれた嵐。 大きく豪華な船がまるで木の葉のように波間を揺れるのを、良守は痛ましい思いで見ていた。 船にはたくさんの「人」が乗っている。 「人」の前には姿を見せてはいけない。それは幼い頃から繰り返し聞かされていた事だった。 良守達一族は人とは違う。一見似たような外見をしているが、大きな違いがあった。下半身が魚の形態。そして陸ではなく水中で暮らす良守達は人からは「人魚」と呼ばれている。 『人は自分達と違う種族を受け入れられない。姿を見られたら、どんな扱いを受けるとも分からない。だから絶対に人の前に姿を見せてはいけない。決して関わってはいけないよ。』 言われている言葉の意味は何となく分かった。だけど良守は自分達とよく似た人という存在が気になって、時々海から陸地の人達を見ていた。 畑を耕し作物を育て、人々は楽しげに暮らしている。地を蹴り走り回る子供達の明るい声が浜辺にも響いていた。 ー良守は人に憧れていた。ずっと話をしてみたいと思っていた。 だが人魚である自分は受け入れてもらえないだろう事も知っていた。 嵐の中揺れる船を見守る事しか出来ないでいると、一際大きな突風が吹き船が大きく傾いだ。その時甲板から人が振り落とされるのを見て良守はあっと声を上げる。黒々と荒れ狂う波にひとつの人影が飲み込まれていく。考える間もなく、良守は海に潜った。 船は停留していたから船自体から起こる海流は小さいかっただろう。だが嵐により波は高く、とてもじゃないが人が落ちて助かる見込みは少ない。良守は暗く濁る海中を必死に泳ぎ、落ちた人影を探した。 やがて力を失い漂う人の姿を見つけ、何とか手繰り寄せると海面に顔を出す。だいぶ遠くに離れてしまった船を見上げて、あの船に戻すのは無理だと悟ると方向を変えて泳ぎはじめた。1qくらい行けば小さな島がある。確か数人だけど漁民も住んでいたし、あそこまで運べば何とかなるだろう。抱えた人間は良守よりも大きく支えるのも一苦労だったが、助けたい一心で良守は必死に泳ぎ、ようやく島の浜辺に辿り着くと波の届かない場所までその体を引きずりホッと安堵の息をついた。 ここならば少なくとも溺れる事は無いだろう。 安心すると、その人の様子が気になった。溺れる事は無くなってもあんなに高い所から落ちたのだ。落ちたのが海とはいえ、その衝撃は固い土の上に落ちるのと変わらなかっただろう。 ー生きているのだろうか。 そっと頬に触れてみる。冷え切った頬、青ざめた顔。年はまだ若い。ペチペチと頬を叩いてみると、小さく呻き声が聞こえてホッとした。 とりあえず生きている。でもずぶ濡れの体は冷え切っていて、このままでは危ない。 誰か人がいないだろうかと辺りを見ると、少し離れた場所に家が見えた。嵐だから窓も閉めきっているが、あの中にいる人達に知らせる事が出来れば…。どうしようと考えているとふいに腕を掴まれ、良守が振り返ると男がぼんやりと目を開けていた。 「あ…、気付いたのか?」 良かった、と思わず安堵の息をついて微笑んだ。だがこの様子ではまだ意識がはっきりしているわけじゃなさそうだ。視線は虚ろだし、掴んだ手にも力がない。早く誰か人を呼ばなければと動こうとしたら、思い掛けない力で掴まれた手に力を込められる。まるで引き留められているように感じて、安心させるように良守はその手に自分の手を重ねた。 「もう大丈夫だからな。」 声をかけると、男の目が徐々に力を取り戻し良守を見た。それは先程までの虚ろな目ではなく、しっかりと良守を見ていて2人の視線がはっきりと交差する。漆黒の、吸い込まれそうな深い色をした瞳だった。何故か視線を外せない。 「き、みは…?」 「あ…っ。」 状況も忘れ見つめ合う形になっていた事と問われた事に驚いていると、男の眉が辛そうに歪み、それからフッと力を失ったように瞼が閉じられた。どうやらまた気を失ったらしい。 早く、早く人を呼ばなければ。良守は意を決するとズリズリと浜辺を這い、家と男の中間くらいの場所に来ると自分の首飾りを首から外した。小さな真珠のような白い玉は、月の光を集めて作る月光石という人魚のお守りだ。それを地面に置くと、また這って今度は海まで戻り岩陰に身を潜める。それからひとつ大きく深呼吸をすると、目を閉じて玉から月の光を解放した。辺り一面が真っ白な光で覆われる。 一瞬だけ嵐が吹き飛んだかのような眩いばかりの白光に、家の中から恐る恐る人が出てきた。何が起こったのかと訝しげに辺りを見回していたその家の主らしき男は、近くの浜辺に倒れている人影を見て家の中に何かを叫ぶと、それから慌てたように駆け寄っていく。 その様子を影から見守って良守は小さく息を吐いた。多分、これであの男は大丈夫だろう。もう自分に出来ることはない。 ならばもうこの場にいるべきじゃないと分かっていたが離れがたいと感じ、良守は何故そんな風に感じるのか分からないまま、後ろ髪を引かれる思いを振り切って海の中へと飛び込んだ。 |
2008.1.23
嵐の日から1週間が過ぎていた。あれ以来というもの、良守はボンヤリとする事が多くなり、仲間達は心配していた。 「良守、あんた具合でも悪いんじゃないの?」 「時音…。」 人魚は長寿の種族なので、見た目は同じくらい若く見えても実際の年は離れている事が多い。その中で良守と時音は実際の年が2歳しか離れておらず、殆ど姉妹のように育った。そんな妹分の良守がずっと塞ぎ込んでいる事を時音は誰よりも心配していた。 「何でもないよ。ちょっと考え事してただけだから。」 気遣ってくれるのが分かるから、良守は時音に笑ってみせる。だが本人は気付いていないだろうけど、その笑顔には覇気がなく物憂げなもので、いつもの良守ならば絶対に見せないような悩ましげなものだった。それを見て、時音の中でピンとくるものがある。 「あんたがおかしくなったのって、この間の嵐があった日からよね。帰ってきた時随分疲れてたみたいだったけど、何かあったの?」 時音の言葉に良守は一瞬ピクリと体を震わせ、それから無言で頭を横に振った。だがその様子こそ、何かがあった事を雄弁に語っている。 「じゃあ言い方を変えるわ。ー誰に会ったの?」 ハッとなり時音を見ると真っ直ぐと良守を見る時音と目が合う。その途端、堪えていたものが溢れ良守は涙をポロリと零した。 「良守…。」 何も聞かずともその涙だけで充分だった。時音は何も言えず、涙を流す良守をそっと抱き締める。 この子は恋を知ってしまったのだ。それも、叶うはずもない苦しい恋を。 「…相手の人はどんな人なの?」 静かに問う時音に、良守は小さく首を振った。 「分からない。あの嵐の時、船から落ちたのを助けただけだから。」 その言葉に時音は考えた。嵐の日この海域を通った船と言えば、一番近い陸地の国の船だったはずだ。国に行けば相手は分かるかもしれない。だが自分達は人魚であり、陸地に長くはいられないのだ。考えこんでいた時音だったが意を決した。 ーこの子がこんなに悲しむ姿を、これ以上見ていられない。 「良守、お婆ちゃんに相談してみよう。何か良い知恵を授けてくださるかも。」 そう言うと時音は戸惑う良守を引きずって、一族で一番長寿であり長老でもある祖母の元へと向かった。 「ー話は分かりました。ですが人と人魚では基本的に相容れない存在。悪い事は言いません、今すぐ諦めるべきです。」 「お婆ちゃん!」 「時音。あなたも過去に人と人魚の間にあった争いは知っているでしょう。人は自分達と違う姿の者を恐れ忌み嫌う。何百年経とうともその本質というものは簡単には変わりません。」 「そうかも…しれないけど。」 時子の言う事は正論すぎて時音には何も言い返せなかった。時音達が生まれるよりも遥か昔、人には無い力を持った人魚を恐れ、人々が人魚狩りをしたというおぞましい過去の話は子供の時から聞かされている。 ちらりと見ると、良守は俯き微かに震えていたがギュッと手を握り締め顔を上げた。 「時子ばーさん。俺は別に人に受け入れて欲しいわけじゃない。ただもう一度、あの人に会いたいだけなんだ。」 良守は時子を真っ直ぐに見た。その視線に籠もる揺るぎない想いが時子の胸に届く。生まれた時から見ていたから、この子が簡単に諦めたりしない事なんてよく知っている。時子は大きく溜息をつくと、仕方ないというように良守を見た。 「…どうしてもと言うなら、方法が無い訳でもありません。」 「お婆ちゃん、本当!?」 驚く時音に、時子は頷いてみせる。 「ですがそれは禁断の術。人魚が「人」になる方法がひとつだけあります。」 「人に…?」 「人になればその人を捜しに行く事も出来るでしょう。ただ、人になったらもう人魚には戻れません。術には大きな代償と危険と苦痛が伴うはず。どんな反動がその身に降りかかるとも知れません。それを覚悟の上それでもと望むなら、私も協力しないでもありませんが…。」 時子の言葉に時音は途方に暮れる。まさかそんな方法があるなんて思わなかった。 時音の中にそれは嫌だという思いが浮かぶ。ずっと一緒に育ってきた妹みたいな存在。それが違う世界に行ってしまうのだ。悲しむ姿を見たくはないと思ったものの、良守が人魚じゃなくなる日がくるなんて考えた事もなかった。 「良守…!」 慌てて振り返った時音が見たのは、先程までと違い目に力を宿した良守の姿。それを見て時音はもう全てが決まってしまった事を知った。 |
2008.1.25
三日後の早朝。良守は一人、浜辺に来ていた。この陸地のどこかにあの人がいる。 会いたいー。ただそれだけの為に良守は人になる事を決めた。大好きな時音を悲しませて、大事な仲間を嘆かせて。 手に持った小さな薬瓶を見つめる。中には透明の液体が揺れていた。これを飲めば人になる事が出来るらしい。だがそれを試した者は過去に一人しかおらず、遥か昔に人としての寿命を終え、その当時の事を知る者は一人もいない。 本当に人になれるのか、どのような副作用が起こるかも分からない。それでも良いのかと時子に何度も念を押されたが、良守の決意は変わらなかった。泣きながら止めた時音にも、良守の決意が変わらない事は分かっていたのだろう。最後にはお守りだと、使ってしまったあの石の代わりに、時音が作った月光石を首にかけてくれた。その石を握り締めながら良守は小瓶を握り締め一気に飲み干す。 途端に体が熱くなり、激しい眩暈に襲われて良守はその場に崩れ落ちた。脚が焼けるように痛くて思わず悲鳴を上げる。細胞の一つ一つが作り替えられるその激痛に良守は耐えるしかなかった。お守りの月光石を強く握り締めていた手からは血が滴ったが気付かず、ただ拷問のような時が過ぎ去るのをひたすらに耐える。やがて少しずつ熱が引き、痛みが和らいでくるのに恐る恐る起き上がってみると、尾びれが二つに分かれ、脚の形になっているのが霞む視界の端に見えた。 (あ…、人になれた…のか…?) そう思ったのが最後、疲労の極限にきていた良守の意識は急速に闇に沈んでいった。 「う…ん。」 まず光があった。そして頬をくすぐる温かな風。柔らかなものに体を包まれている心地よい感触。 覚えのないそれに、良守は頬を擦り寄せた。何だろう、凄く温かい。 徐々に覚醒していく意識の片隅で誰かが髪をかき上げてくれるのが分かる。とても優しく触れるその手が気持ちよくて、また眠りに落ちそうになりながらぼんやりと考えた。 ー誰? 時音じゃないのは確かだ。優しい仲間達の手じゃない。だってみんなの手はもっと細くて優しいけどひんやりしている。こんな風に包み込むような温かさは知らない。 そこまで考えて誰か知らない人が傍にいるという事実に、良守はハッとして身を起こした。その途端クラリと景色が回転する。 「う…っ。」 「ああ、無理しないで。」 額を押さえた良守の耳に、低く落ち着いた声が聞こえる。気遣うその言葉にそろそろと顔を上げて見えたその顔に良守は目を瞠った。 「大丈夫かな?キツいようならまだ休んでいた方が良いよ。」 倒れそうになった背を支えてくれる手の大きさに、髪を梳いてくれていたのはこの人だと気付く。 そしてー、あの嵐の日に出会ったあの人だ。 驚きのあまり何も言えないでいると、目の前の男がにっこりと笑った。 「目が覚めたら知らない場所で驚いただろう?ここは城の俺の部屋で、君は浜辺で倒れてたんだ。覚えてるかな?」 問われて良守は大きく頷いた。薬を飲んで人になれた、と思ってからの記憶がない。 「あの…、あんた、いや貴方が助けてくれたんですか?」 「はは、敬語はいいよ。助けたっていうか、あの浜辺は最近の朝の散歩コースでね。君を見つけたのは…こいつだ。」 男の言葉にワン!と大きな声が聞こえる。その声に下を覗き込むと、真っ白な犬がこちらを見上げていた。 「名前は斑尾って言って俺の愛犬。今日はお手柄だったな、なあ斑尾。」 笑いながら男が斑尾の頭を撫でてやると嬉しそうに尻尾を振っている。その様子の微笑ましさにクスッと笑うと、男が良守を見た。 「自己紹介が遅れたね。俺は正守。君の名前を聞いてもいいかな。」 「あ、えっと俺は良守、です。」 「へえ、良守っていうんだ。俺の名前と似てるね。」 楽しげに笑う正守を見て、良守は込み上げてくる喜びと同時に少しの寂しさを感じていた。あれほど会いたいと願っていた人にこんなにすぐ会えた事は嬉しい。だけどこの様子だと、良守の事は覚えていないようだ。だがそれも当然だろう。あの時正守は死にかかっていて、意識も朦朧としていたのだから。 「ところで良守君。君はどこの家の子なのかな。ご家族にも連絡したいんだけど。」 正守のその問いに、何か違和感を感じたが聞かれた事に答えない訳にもいかない。だが本当の事など話せない。良守は困ったように俯き「わからない」とだけ答えた。 「分からないって…、家がどこにあるかって事?じゃあ名字を教えてくれたらこっちで調べるけど。」 そう問われても良守は答えられず首を振る。その様子に正守は顎に手を当て何かを考えていたかと思うと、俯く良守の頭にポンと手を乗せた。良守が顔を上げると優しく微笑む正守と目があって、頬が赤くなるのを感じた。 「何か事情がありそうだけど…。心配しなくても暫くここで養生するといい。あ、そろそろお腹も空いただろう?すぐに食事を運ばせるからね。」 驚く良守を部屋に残して、正守は出ていってしまった。いつまでも正守が消えたドアをじっと見てしまう。見ず知らずの人間である良守に何でこんなによくしてくれるのだろう。もっと警戒されてもおかしくないのに。 う〜んと考え込んで、それから良守は部屋の中を見渡した。 広い部屋に整った調度類。寝心地の良い寝具は随分と肌触りが良くて質の良さを感じさせる。大体よく考えたらあの嵐の時には気付かなかったけど、船に乗れるだけでも一般人とは思えない。船員という感じではなかったし、身なりからしてもそれなりの身分の人なのかもしれない。それなのにこんなに無防備で良いのかな。考えたって仕方ないけど。 とりあえず傍にいられるなら良いか、と開き直る事にして、良守はそっとベッドから足を降ろしてみた。足裏に冷たい石畳の感触が伝わり、ひゃっと声を出しそうになる。ゆっくりと地に足をつけ立ち上がろうとしたが、力が入らなくて座り込んだ。それからもう一度、壁に掴まりながら立ち上がる。今度はふらふらとしながら数秒だけ立つ事ができた。 「…っ、やった!」 本当に人になれてる!二本の足で立ち上がる事ができた感動で良守は震えた。凄い凄いと興奮しながら喜んでいた良守の目に、パッと鏡が飛び込んでくる。そこには顔を紅潮させて喜ぶ良守の姿が映っていた。だがその姿がどことなくおかしい。 首を捻りながら鏡を覗き込んでいた良守だったが、おかしい部分に気付いて目を見開いた。長い長い、腰ほどの長さがあった髪が短くなっている。どうして、とあちこち自分の体を見直して、もっとおかしい事実に気付く。 先程、正守に問われた時感じた違和感の正体がようやく分かった。「良守君」などと呼ばれるはずだ。 「嘘だろう…。」 良守の体は少女から少年へと変わっていた。 |
2008.1.28