時には素直に 






「ただいまー。」

深夜、もうすぐ夜が明けるという頃、良守はいつものように帰宅した。
誰もが眠っているような時間の帰宅。声をかける必要もないのだがそれは最早習慣だ。
いつもならばそれで終わりなのだが今日は違っていた。

「お帰り。」

部屋からヒョコっと顔を出したのは兄の正守だった。正守はそのままスタスタと良守に近づく。

「風呂湧いてるみたいだから入ってこいよ。」

そう言うと良守のディバッグを背から抜き取り、風呂場へと促した。サンキュ、と返して良守も風呂場へと向かう。
深夜の仕事をする良守の為に、父修史はいつも風呂を用意してくれている。夏場は暑いのでシャワーで済ませる良守だったが、肌寒くなってくると温かい風呂に入ってから休める事は有り難かった。
脱衣所でまずは術着を脱ぐ。小さい頃から来ているから帯を解くのも慣れたものだった。今夜はたいした妖が出なかったからそんなに汚れなかったけど、激しい戦闘になると体中泥だらけになったり、あちこち怪我をして服を破いたりと大変だ。
体を洗って湯船に浸かるとじんわりと温もっていく。疲れも何もかも吹き飛んでいくようで、良守はホッと息をついた。





風呂から上がり、髪をガシガシと拭きながら廊下に出る。自室へと戻ろうとすると、自然と通る事になる兄の部屋の前に差し掛かった。きのうの夕方帰ってきた正守とはまだあまり話をしていない。その帰宅に喜んだ家族に正守が囲まれていたからだ。話したければ自分もその中に入っていけば良いだけの事だが、良守にはそれが出来なかった。
以前は意地を張っていたから。だが今は違う理由から。

だってなぁ、と彼は溜息をついた。相手はその、一応恋人ってやつで。でも離れて暮らしてるから時々しか会えなくって。そんな相手が目の前にいて普通に話したり出来るかどうか自信がない。
顔は赤くなってないかとか、いつもと同じ顔をしているかどうかとか、そんな事が気になってしまう。自分はそんな風に色々気にしてるのに、兄は平然としているってのもちょっとムカつくし。こういう時、7歳の年齢差は大きいって思う。いや、あいつの事だから例え同じ年だったとしても変わらないのかもしれないけど。

足を止め兄の自室を見た。部屋は静まりかえっているが、さっき声を掛けてくれたんだからまだ起きてるかもしれない。今夜は珍しく烏森に来なかったみたいだけど、繁爺にとっつかまってたみたいだから話にでも付き合わされてたのかな。出来れば話とかしたいけどもし寝てたら悪いし…。どうしようかと考えていると、「良守?」と襖の向こうから名を呼ばれ、良守はびくりとその場に固まった。

「そんな所で何やってんの?」

音もなく襖を開けた正守は、時間が止まったかのように動かない良守に近づくとその頬に手を伸ばした。

「ああもう、廊下なんかに突っ立ってるから冷えちゃってる。」

しかも髪からは冷たくなった滴が垂れていた。まだそこまで寒いわけじゃないけど、濡れ髪のまま放って置いてすぐ乾くような時期でもない。

「こっちに来い。髪、拭いてやるから。」

腕を掴まれてようやく良守の金縛りが解けた。パチパチと数度の瞬きを繰り返して正守を見上げた良守は、部屋へと促す兄に大人しく従う。そんな良守を部屋に引き入れ座らせると、正守はその向かいに座り良守が肩に掛けていたタオルで髪を拭い始めた。

「お前の拭き方って乱暴で大雑把なんだよな。もうちょっと丁寧にやれよ。髪だって痛むぞ。」

そう言いながら良守の髪を拭く正守の手付きはとても丁寧だった。髪の束をタオルで挟み込んで、細かくポンポンと叩くように水分を取っていったかと思うと優しく撫でるように拭われ、心地よさで思わずうっとりしそうになる。自分は坊主のくせに何でこんなのが上手なんだろうと不思議に思いながらも、まるで小さな子供に言い聞かせるような兄の口調にムッとなってしまう。

「別にいいだろ。男の髪が多少痛んだって。」

ふて腐れたような口調で、それでも大人しく髪を拭かれるに任せている弟に苦笑しながら正守が答えた。

「よくないよ。俺、お前の髪の触り心地気に入ってるんだよね。」

こんな風に、と髪を手で掬い撫でる正守の動きに良守が顔を上げた。するとにっこりと笑う正守と目が合う。

「ちょっとくせっ毛なんだけどサラサラしてて、綺麗な漆黒でさ。手に馴染むんだよな。」

そう言いながら指先で髪を玩ぶ正守の仕草に、良守がスッと頬を染めた。例え髪だろうと綺麗だなんて正守に言われると何だかくすぐったい。恥ずかしさからか少し俯いてしまった良守の可愛らしい仕草に正守は微笑むと、その頭を軽くぽんと叩いた。

「髪は大体乾いたけど、まだちょっと冷えてるな。温かい飲み物でも持ってくるから待ってろ。」
「…コーヒー牛乳が良い。」
「この時間にカフェインか?ホットミルクで我慢しろ。」

笑いながら正守は部屋を出ていく。その後ろ姿と静かに締められた襖を見送ってから、良守は改めて部屋の中を見回した。
数年間主が帰って来なかった事もあったこの部屋も、相変わらず荷物の無い殺風景さは変わらないのだが、最近は頻繁じゃないにしろ正守が帰ってくるからか随分と雰囲気が変わってきたような気がする。ちょっと前まで立ち入る事など無かったのに、今はこの部屋にいる自分に違和感も感じない。昔はまるで結界でもはってあるかのように近づき難いと感じていたのに。

普段気配を殺している正守も、この部屋と良守の部屋ではくつろいでいるように見える。だからこの部屋には正守の気配と空気が残っていて、そのことにどこか安堵する自分を良守は感じていた。
気が抜けて眠っちまいそうだと思いながら、せっかく正守と一緒にいられるのに眠ってしまうのは惜しくて、自分の頬を抓ったり頭をブンブンと振ってみたりする。そんな良守の目に片隅に置かれた徳利とぐい飲みが目に入った。正守が飲んでたのかと近づくと、ちょっと大きめのその徳利を持ち上げ軽く揺する。まだ半分くらいは入っているだろうか。匂いを嗅いでみると、ふわりと柔らかな、なんだか甘い匂いがした。まるで花みたいだと良守は思った。

…ちょっとだけ、ほんのちょっと飲むくらい大丈夫だろ。

好奇心を抑えきれず、良守はぐい飲みに少しだけ酒を注ぐとそろそろと口を近づけた。ペロリと舌先だけで舐めてみると、匂いのままの甘い味と香りが口の中に広がっていくのに目を見開く。

なんだこの酒、うめえ!

良守が今まで飲んだ事のある酒といえば、正月に飲まされるお屠蘇くらいだった。シナモンの香りとかして悪くはないのだけど、そんなにうまいものでもない。ただ邪気払いに飲むものだと聞かされていたから飲んでいただけだ。
でもこの酒は良い香りと甘い味で、同じ酒とは思えないくらいにおいしい。


良守は酒を注ぎ直すと、そのままぐい飲みを傾け、一気に中身を飲み干した。








蜂蜜入りのホットミルクがマグカップの中で揺れている。歩く度にほのかに漂ってくる甘さを含ませた湯気は、どこか人の気持ちを和らげてくれる気がして正守は気に入っていた。コーヒー牛乳が大好物の弟には物足りないかもしれないが、寝る前に体を温めるならホットミルクが一番だ。

「良守、待たせたな。」

襖を開けながら言うと、先程まで部屋の真ん中辺りにいた弟が移動している事に気付いた。入り口に背を向けていた良守がくるりと振り向いたかと思うと、正守の姿を見つけて笑う。その笑顔が「にっこり」ではなく「にへら」という感じな上に、どことなく目つきが怪しいというか顔も心なしか赤い気がして、正守は嫌な予感がした。慌てて近づくと良守の手にはしっかりとぐい飲みが握られている。

「お前、これ飲んだのか!?」

珍しくも焦った様子の正守が、ぐい飲みを良守の手から奪いながら問うと、良守はコクリと頷いてからヘラヘラ笑って答えた。

「飲んだ〜。なあなあ兄貴、酒ってすっげーうまいのな!」

自分だけ飲むなんてズルいぞ〜と、取り上げられたぐい飲みを奪おうと良守が正守の体にもたれ掛かってきた。それを届かないようにと腕を伸ばして応戦する。その膝に乗り、よじ登ろうとする良守からはハッキリと酒の匂いがして正守は溜息をついた。
この酒がうまいのは当然で、とある有名酒蔵の大吟醸だった。柔らかな口当たりと甘さで飲みやすいことから女性に人気のある酒で、繁守が人から貰ったのだと言っていた。繁守に酒に付き合えと言われたのは弟達が眠りについた頃。父は下戸だったし、外で呑む習慣がない繁守の言葉にたまには良いかと頷き、数時間取り留めの無い話をしながら酒を飲み交わした。そろそろ夜も更けたしという事でお開きになった時、辛口の酒を好む繁守が貰ったは良いが飲まないからと正守にくれたのがその大吟醸だったのだ。

しまったなと、正守は張り付いてくる良守をかわしながら考える。良守が帰るまでにまだ間があるからと、暇潰しに開けたのがいけなかった。そしてこの酒がかなり甘口の日本酒だったのも悪かった。辛口の酒ならば、良守も一口試してみるだけで終わっただろうに。
正守は立ち上がると、徳利とぐい飲みをこの部屋の数少ない家具である文机の上に置くと結界をはった。もちろん簡単には解けないような頑丈なものを。
あ〜、と残念そうな声を上げる良守を呆れたように見ながら、今度は弟にマグカップを差し出す。

「良守、いい加減に諦めろ。お前明日学校あるだろう?これ飲んで大人しく寝るんだ。」

正守の言葉に良守はムッとしたように口を尖らせた。そしてマグカップを睨んでいたかと思うと徐に受け取り、そのままクルリと身を翻して正守の膝に座る。弟の突拍子のない行動に、正守が目を見開いた。

「…良守?」

声をかけてみても、良守は両手に持ち替えたマグカップを口に付けホットミルクを飲んでいる。コクコクと微かに聞こえる喉を鳴らす音がやけに耳に付いた。
これは一体どういう事だろうかと正守は考える。割と恥ずかしがり屋の良守は、普段あまり自分からこういう事をしてこない。だから兄弟としても恋人としても、スキンシップを図るのは正守からというのが常で。それを良守が真っ赤になりながら受け入れてくれる、というのが今までの構図だったのに。

少々不思議ではあるが、この状態に不満があるわけではない。むしろ大歓迎だ。
それなりに鍛えているから多少は筋肉もついているのに、小柄なせいかやたらと軽く感じる弟の重みを膝で感じながら、それでも昔よくこんな風に抱っこしていた頃より大きくなったその体を後ろから腕を廻して支えてやる。小さい頃の良守は、正守の膝に乗るのが好きだった。本を読んでとねだる時、必ず膝に乗ってきていたのを思い出す。そんな風に良守が甘えてきたのだって本当に小さい頃だけでー。と、そこまで考えてから正守はハタと思い当たった。これって甘えられてるって事だよな。

さっきまで溜息をついていたくせに、甘い酒のもたらした思わぬ効果に正守はほくそ笑む。そんな正守の変化に気付かない良守は、マグカップを口から離してじっとしていたかと思うと俯いてしまった。

「良守?眠いのか?」

正守の問いに良守が僅かに首を振る。

「…寝るの、嫌だ。一緒にいたい。」

ぽつりと小さく、でもはっきりと呟かれた良守の言葉に、正守はその頭を撫でようとしていた手を止めた。繰り返すが良守は恥ずかしがり屋だ。兄であり恋人である正守にも自発的に甘えてくれる事は少ない。まあこういう関係になって間もないし、擦れ違ってた期間が長すぎたし、何と言っても相手はまだ14歳。「お付き合い」というものも正守とが初めてという初心っぷりだ。だからちょっとずつ慣れてくれれば良いと思っていた。だが酒に酔ってこんな事を言ってくれるとは…。これが良守の隠されていた本音なら、単に慣れてないとかそういう事ではなかったのかもしれない。

「良守って、普段あんまりそういう事言わないよね。」

止まっていた手を良守の頭に乗せた。出来るだけ優しく髪を梳いてやると、少し長めの癖のある漆黒の髪がするすると指から零れていく。

「もしかして言うの我慢してた?俺に遠慮とかしてる?」

感じた疑問を口にすれば、良守はますます顔を俯かせてしまった。

「だって。」
「ん?」

躊躇ったように口を閉じてしまった良守を促すように正守がまた髪を撫でると、良守は立てた自分の膝に顔を埋めぼそりと呟いた。

「…我が侭だろ、こーいうの。」

一緒にいたいとか、もっと会いたいとか。忙しいのが分かっている相手に言って良い言葉とは思えない。忙しすぎて睡眠時間も短そうな兄だから、せめて実家で休暇中くらいはゆっくりして欲しい。眠れる時には寝て欲しい。だけど一緒にいたいと思ってしまうし話をしたいと思う。自分の中のそんな矛盾に苦しくなる。

いつもは押さえられているはずの気持ちが、留めようもない程の勢いで溢れ出してくるのを良守は感じていた。どうしようもなくて、思わず顔を上げ体を反転させて兄にしがみつく。するとすぐに背に正守の大きな手がまわり抱き締めてくれる。じんわりと伝わってくる暖かさに鼻の奥がツキンと痛んだ気がした。

「俺がこういう事するのって変?」

少し不安そうな表情で見上げてくる良守の、その何とも可愛らしい台詞を正守は微笑んで否定する。

「変じゃないよ。」
「本当に?我が侭だって思わないのか?」
「思わないよ。俺なんかいつもこういう事したいって思ってるし。でもお前14歳だし、学校とかもあるし。只でさえ夜中の仕事抱えてるんだから、あんまり俺の都合で振り回したくないなとも思うんだよね。」

正守の言葉に良守は目を見開いて驚いた。

「そんな事思わなくていい!!」

兄が会いたいと望んでくれるなら、それがどんな時間の逢瀬だろうと構わない。翌日が学校だろうと、例え授業中だっていい。仕事が忙しいのは正守の方で、離れて暮らしてるのに会いに来てくれるのも正守なのに。

「そんな遠慮なんてすんなよ!俺は振り回されてるなんて思わねーから!」

兄貴が会いたい時には俺も会いたいと、潤んだ目で見つめられて正守は愛おしげに良守を見ると、その眦にキスを落とした。

「お前がそう思ってくれるなら、お前の言う「我が侭」だって俺には嬉しいよ。」

一緒の事だろ?と言われて良守は瞼をパチパチさせた。
正守は忙しい。100人以上の人間を預かる夜行の頭領だ。その仕事の大変さなんて、良守には想像しきれない。そんな正守に甘えて負担になりたくなかった。もっとたくさん話したいと思っても電話をする事も躊躇われたし、こうして会えても夜中に起こすのは気が引けた。その気持ちには負担をかけたくないという思いと共に、そんな我が侭を言って嫌われたらどうしようという恐れもあって、だからますます言えなくて。でもそれは我が侭じゃないのだろうか。言っても嫌わない?

「触れたいとか傍にいたいとか、好きだったらそういうのって当然の感情だろ?それは我が侭とは言わないし、もし我が侭なんだとしても良守が甘えてくれるなら、俺はその方が嬉しい。」

こつり、と額同志が合わさる小さな音に今にもぶつかりそうな鼻先。これ以上ないくらいに顔を近づけて正守は続ける。

「メールだけじゃなくて声が聞きたくなったら電話してよ。会いたくなったらそう言って?そりゃ電話に出れない時もあるし、毎回必ず来るとは言えないけどさ。」

な、と正守が促すように良守を覗き込んだ。その目がどうしようもなく優しく良守を見ていて、胸が苦しくなる。
こんな風に、全てを受け入れてくれる。初めての感情に戸惑う良守を包み込んでくれる。
それに甘えてしまっていいのかも分からないけど、正守が望んでくれるならそれで良いのだろうと思う。だって正守も会いたいと思ってくれてるなら嬉しい。それが我が侭だとしても嬉しい。

広い胸元に額を擦りつけた。ぎゅっと強く抱き付くと抱き締め返してくれる。こんな時間が何よりも大切だと思う。

「…本当に我が侭言うからな。覚悟しとけよ。」

良守の言葉に、正守は小さく笑って返した。

「お前の方こそ、遠慮するなって言った事、後悔するなよ?」

そんな少し不穏な響きの言葉に、若干口の端を引きつらせながら。それでも良守は大きく頷いてまた正守に抱き付いた。

















2007.11.14/11.22


25万打御礼企画その2

リクエストはaykさんで
「酔っ払っていつもは恥ずかしくて(もしくは強がっちゃって)
甘えられないよっしーがまっさんに素直に甘える』
でした

恥ずかしくてとか強がってというより、嫌われるのが恐くて
甘えられないよっしーになっちゃった…
aykさん、お待たせした上にリク通りにならなくてごめんなさい〜!
よろしければお受け取り下さいませ;



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