クルミマフィンとチョコレートケーキ
父さんがご近所さんから大量のクルミをもらった。まだ殻に入ったままのクルミ一袋。 居間で父さんと殻を割って薄皮を剥いているうちに、クルミを使ったお菓子を作りたくなった。 「これ、何か料理に使うの?」と聞くと、葛を使ってクルミ豆腐にするくらいかな、と答える父さんに、余るなら欲しいと告げると残りは全部使って良いよと言ってくれた。 大量のクルミを剥くのは大変だけど、お菓子作りに使えると思うと苦にもならない。何にしようか迷ったけど、たまにはケーキじゃないのも良いかなと思ってマフィンを焼く事にした。材料も今台所にあるもので手軽に作れるし時間もかからない。 出来上がったマフィンは我ながら良い出来で、おやつに出すと利守も褒めてくれた。美味しいと言ってもらえると、ここにはいないあいつにも食べさせたくなる。 あいつ、甘いもの好きだし。マフィンならケーキと違って型くずれの心配もないし。忙しそうだから、休憩の時とか甘いものも欲しいだろうし。 なんやかんやと自分に言い訳しながら紙袋にマフィンを詰め込むと、式に銜えさせて空へと放った。こういう時、式って便利だ。宅配便で手作りの生物送るのってちょっと恐いけど、式だとほんの数十分で届けてくれる。爺あたりに見られたら説教もんだけど、使える術を便利に使って何が悪い。 少しずつ小さくなる式の後ろ姿を見送ると満足して、そのままいつもよりは遅い仮眠の床についた。 夜の烏森は忙しい時には猫の手も借りたいくらいだけど、拍子抜けするくらい静かな日もある。今夜はまさにそんな夜で、小物一匹姿を現さなかった。気を抜いてはいけないのは分かっているけど、あまりに暇すぎて眠くなるのはどうしようもない。 どうせ何か来たら分かるんだしと割り切って、屋上で仮眠することにした。斑尾も呆れたような顔をしながらも邪魔する気は無いようで、散歩がてら一回りしてくるよと飛んでいってしまう。ディバッグの中に入れて置いたマイ枕を取り出して、少しひんやりとしたコンクリートの上に寝そべった。日中はまだまだ暑い日が続いているけど、日が暮れると随分冷たい風が吹くようになっていたから、こんな時間の屋上は結構涼しい。でもまだ寒いとまではいかないし、只でさえ厚めの法衣を着ているから体が冷えるという事はなかった。 目を閉じるとあっという間に眠気が襲ってくる。涼しい風が頬を一撫でした記憶を最後に、良守の意識は深く沈んでいった。 柔らかな感触が頭を撫でる。ゆっくりと優しく。まるで子供を愛おしむように。 誰だろうと良守はぼんやり思った。父さんの手に似てるけどどこか違う。同じように安心できる大きな手だけど何かが違う。夢現の心地よさに浸っていると、頭の隅から声が響いた。起きろよ、このままじゃ帰っちまうぞ。せっかくーーが来てくれたのに。 その声にパチリと目を開けた。何度か瞬きを繰り返して上を向くと、ちょっと面食らったような顔をした正守と目が合う。 「起こしちゃったか」と苦笑する兄を見上げながら身を起こそうとすると肩を支えてくれた。「どうして」と不思議そうな顔をする良守の髪をまた撫でながら、正守は微笑む。「美味しいお菓子のお礼を言いたかったからさ」と言われて、昼間マフィンを送った事を思い出した。「そんなの式でも携帯でもいいのに」と言うと、「直接言いたかったんだよ」と笑って、それから横からぎゅっと抱き締められる。 「凄く美味かった、ありがとう」と言いながらこめかみに軽くキスされて、嬉しいんだけどそういうのにまだ慣れてない俺はドギマギしてしまって、照れくさいのを隠そうとぶっきらぼうになってしまう。「あんな程度の事で、そんなに喜ぶなよ」と、悪態をついてみても、それが照れ隠しだって分かっている正守は平然としている。腕の中の良守の体をちょっとずらして背中に回ると、軽く覆い被さるように抱き締めた。 「良守が作ってくれたお菓子ってだけでも嬉しいのに、あんなに美味いんだから喜ぶのは当然だろ」と言われて、「そ、そうか」と答える事しかできない。背中越しに伝わる体温と、緩く抱き締めてくれる腕の逞しさ。耳元で囁かれる言葉と息がくすぐったくて、でも心地よくて自然と顔が綻ぶのが自分でもわかる。きっと顔中真っ赤になってると思うんだけど、兄はそれをからかったりはしないであやすように体を揺らした。そうされていると幼い頃を思い出す。兄の腕の中は一番安心できる場所だった。抱き締めてくれる腕に手を添える。 こんな風に喜んでくれるなら、次は兄の為に何かを作りたいと思う。とはいえ何がいいだろう。以前兄が土産に持って帰ってきたのは和菓子ばかりで、自分が作れるのは主に洋菓子だ。和菓子だって本とか見れば作れない事もないだろうけど、ちょっと自信が無い。 「なあ兄貴、好きな洋菓子ってある?」と聞くと、「なに、もしかして作ってくれるの?」と楽しげに聞かれたので素直に頷く。すると兄は少しだけ驚いた顔をしたあと、満面の笑みを浮かべた。その笑顔が本当に嬉しそうで、幸せそうで、まるで子供みたいだった。至近距離でそんな顔を見たもんだから俺の心臓は急に忙しなく動き始める。こんな事くらいでそんなに嬉しそうな顔をされると、こっちまで嬉しくて、なのに何故か泣きたいような気持ちになって困る。切ないってこういう気持ちを言うのかな。幸せなのに切なくて泣きたいって、自分はどこかおかしくなってしまったんだろうか。幸せすぎて変になったのかな。 人を好きになるって不思議だ。両想いになる前は苦しくて切なくて、諦めてばかりだった。想いが通じた後は舞い上がる程嬉しくて幸せで、でも時々やっぱり切なくなる。どうしてこんな気持ちになるのかは分からない。俺がもっと大人なら分かるのだろうか。兄貴はこんな気持ちになるのだろうか。兄貴ならこの気持ち分かるのだろうか。でも説明しようにも言葉にするのは難しそうだ。それに切なくても哀しくはないからいいかなって思う。泣きたくなってもそれは空っぽだからじゃなくて、満たされて苦しくって、だから泣きたくなるのなら、それはきっと幸せな事だと感じるから別にいい。 正守は先程聞かれた事を考えているらしく、「好きな洋菓子…」と小さく呟いている。その真剣な響きがおかしくて良守が小さく笑うと、う〜んと一言唸った後正守が良守の肩に顎を置いて答えた。「お菓子は割とどれでも好きだし、良守が作ってくれるなら何でも良いよ」と言われて良守はちょっと困る。何でも良いと言われるとかえって迷ってしまう。そんな良守に気付いたのか、正守が「じゃあお前が一番得意なやつ、食べたい」と言った。「それだったらチョコレートケーキだな」と言うと、「チョコレートケーキか、楽しみだなぁ」とまた嬉しそうに笑ってくれた。 正守が喜んでくれるのが嬉しい。幸せそうに笑ってくれるのが嬉しい。好きな人を自分が幸せにできるって凄い事だと思う。もっと早くこうなってれば良かった。だけど擦れ違ってた頃の辛さがあるから、今この時の幸福が尚更愛しいと思うのだろう。無くしたくないと切に願うのはその存在。やっと届いた手を離さないで欲しいし離したくない。もう後ろを追い掛けるだけじゃなくて、横に並び立てるようになりたい。 抱き締めてくれる腕に安心して力を抜いて身を委ねるとふっと息をついた。すると少しだけ正守の腕に力が籠もる。きっと同じ気持ちを抱いてくれてると、自然とそう思えるのが何よりも嬉しい。通じ合えた想いが何よりも愛しい。 目を閉じて伝わる体温を全身で感じると、体から力が抜けて眠気がやってくる。ウトウトとしていると耳元で「おやすみ」と聞こえた気がして、良守は穏やかな眠りに身を任せた。 それはお互い抱いていた誤解が解け、想いが通じ合ってまだ2週間の頃の話。 |
2007.10.4