広がる世界
下から吹き上げてくる少し生暖かい風。月明かりの中浮かび上がる白い校舎。 眼下に広がるその土地を、正守は空中にはった結界の上から眺めていた。 遠くに見えるのは弟の姿。先程から小さなムササビみたいな妖を追い掛けている。 大きな結界を力任せにはるのは得意な弟は、術を使う技巧や速度においては幼馴染みの少女に劣っていた。 ムササビのような妖はやたらとすばしっこく、木から木へと飛び回り、弟がはる結界から難なく逃れている。 あ〜あ、一回体勢立て直せば良いのに。 ムキになってぎゃあぎゃあ騒いでは斑尾に頭を噛まれたりしている良守の姿に、正守は苦笑した。まったく、こういう所はまだまだ子供だ。 本当はほんの少しの期間で、弟の術は驚くほど精度を上げた。時音にはまだ劣るだろうけど、成形スピードだって引けを取らないだろうと思う程だ。だがそれは集中している時であって、こんな風に頭に血が上っている時では比べ物にならない。 弟の術にはムラがある。そしてそれは相手が危険なもの、強いものであればあるほど集中力が高まり自身も強くなる。 だからこそかえって、今日みたいな小物相手だとその実力は発揮されない。 半ば呆れながら見ていると、良守が何かに躓いた。あっと思う間もなく盛大に地面に突っ込んでいく。ビタン!と大きな音を暗闇に響かせた弟はのろのろと起き上がった。その頭上を笑いながら斑尾が飛び回り、それに向かって顔を真っ赤にした良守が怒鳴っている。 運動神経は人並み以上なのに、どうしてあんな何でもないような所で転ぶかな。 昔から良守はよく転ぶ子供で、あちこち擦り剥いたりぶつけたりしてはピーピー泣いていた。過去の記憶が甦ってくる。 にいちゃんにいちゃん、いたいよぉ。 近所の本屋に行くだけの兄に着いてきた弟は、帰り道ではしゃいで走り見事に転んだ。ぐずる弟を抱き上げてやると、泣いていた良守はすぐに泣き止みにっこりと笑う。 すごいやにいちゃん、たか〜い!ねぇねぇ、あのトンボつかまえたい。みずいろだよ、きれいだねぇ。 電信柱に止まったトンボを見て喜ぶ良守に、あれは無理だよ届かないと言うと、弟は口を尖らせた。 にいちゃんならだいじょうぶだよ!だってにいちゃんだもん! あの頃の良守には、祖父と父と母と兄と、そして隣の家の少女と、その5人だけが世界の全てだった。その中でも7歳上の兄は、小さな弟にとって特別だったらしい。何をするにも後を着いてまわり、金魚のフンかカルガモ親子みたいだと言われたのは一度や二度ではなかった。正守にとっても特別だったのは同じで。その手に自分には無い方印がある事も、弟の誕生によって今までの生き方が180度転換した事も関係なかったから。 結局、まわりに人がいないのを良い事に、小さな結界を作りトンボを閉じ込めた。座標指定をしなかった結界は重力のままポトリと下に落ちる。それを受け止めて良守に渡すと、小さな弟は大きな目を零さんばかりに見開いて喜んだ。 やっぱりにいちゃんはすごいや! 向けられる無垢な、絶対的な信頼。満面の笑顔。そんな存在を愛しいと思うのに理由なんて要らない。ただ良守だから愛おしかった。大切だった。 このままじゃ死んじゃうから放してやろうな。そう言うと残念そうな顔をして、でも大きく頷く。 解、と小さく呟くと溶けるように輪郭を崩す結界からトンボが飛び立っていくのを、兄弟二人で見送った。 今思い返せば、それはまるで蜜月のような日々だったと思う。何も知らず幼かった弟だからこそ、ただ純粋に兄を慕ってくれた。自分も惜しみない愛情を返す事が出来た。大人の勝手な邪推や同情を余所に、確かに満たされていたのだ。 それから少しずつ大きくなると同時に、弟は自分の右手にある印の意味を知り始める。それと共に本格的に継承者としての修行も始まり、7歳上の兄と比較される内に引け目や劣等感といった感情を抱え始め。そうやって少しずつ弟との心の距離が広がり始めた頃には、自分も言いようのない葛藤を抱え苛立っていて。気付けば弟との溝は傍目にも分かる程深くて広いものになり。そしてそれは、正守が家を出た事で決定的な物になった。 家を出てから裏会に入った当初は、一癖も二癖もあるような連中相手に侮られないようにと気を張りつめて。裏会の有りように嫌悪を抱き、「より人間らしい」が故に裏会からははみ出し者として蔑まれた者達を集めて夜行を作った。修行と仕事に忙殺される日々の中実家と距離を置いて、実際それは上手くいっていたのだ。だからつい最近まで里帰りする事なんて滅多になかった。 あのまま誰かが烏森を狙うような不穏な動きがなければ、あの時期に烏森に帰る事がなければ、良守に惹かれている自分に気付くこともなかったのだろうか。他人から見ればそれが正しい道なのだと言われるのかも知れないが、正守はそうは思わない。 良守を家族としてだけではなく愛している事に気付かなければ、多分正守は誰を愛する事もなく一生を終えただろう。此程までに心を奪われて、どうしようもなく惹かれた存在から目を逸らし気付かないでいること。人として、それが正しいとは思えない。 間違ってると言われても構わないし、誰かの許しを請うつもりはない。この想いを断罪出来る人間がいるとすれば、それは良守ただ一人だけだ。だがそれは、告げるつもりがない以上有り得ない事だろう。 …告げるつもりはない。元より叶うはずのない想いだという事は知っている。ならば己に出来る事をするだけのこと。ただあれの身を縛り付けようとする全てから解放する為に。煩わしいしがらみなど、あいつにはなくていい。もっと自由に生きるべきだから。 そう願う事もある意味押しつけだな、と考えて正守は苦笑した。今が許せないのは正守の勝手で、解放したいと願うのも我が侭だ。 それでも、せめてそれくらいは。どれ程欲しいと思っていてもこの腕に抱き締めたいと願っていても、決して触れることすら許されないのなら、これくらいの我が侭はどうか許して欲しい。 眼下では良守が、ようやく捉えた妖を滅していた。喜んではしゃぐ良守に斑尾が呆れた風情で何かを言っている。恐らく『この程度の妖にあんだけ時間かかっといて、喜んでるんじゃないよ』とでも言っているのだろう。振り向いた良守は不機嫌そうに口を尖らせている。その顔がそのまま昔の、幼い頃の姿と重なり正守は小さく笑う。 変わらないでいてくれるその存在がどれほど大切なものかだなんて、もう思い知ったから。どうかお前だけはそのままでいてくれ。 目を細めてその姿をもう一度見ると、正守は後ろ髪引かれる思いを断ち切って身を翻した。その内ちゃんと実家に帰ろうと思う。その時にはたまには良守が好きそうな洋菓子でも土産にしてやろうか。きっと帰宅した兄に嫌そうな顔をするだろうけど、洋菓子に釣られて笑顔のひとつも見せてくれるかもしれない。 いや、俺ってけなげだねぇと、人が聞いたら眉を顰めそうな事を考えながら、正守は空中に張った結界を移動していった。 |
2007.10.21