あの日の約束



「一瞬だけ助けてやる!!」

それはまだ弟が今よりも幼かった頃の、彼自身は忘れているだろう遠い昔の約束

あの日二つの約束が守られていた事を、弟はきっと気付いていない





草木も眠る丑三つ時をさらに過ぎて、誰もが寝静まるそんな時間。
カラカラと窓を開ける人影があった。
静かな中、必要以上に大きく響くその音を僅かに気に留め、それでもこの部屋の主がこれくらいの音で起きない事を知っているので、そのまま部屋へと足を踏み入れる。
何しろつい先程まで家業に勤しんでいた件の人物は、仕事が終わるといつも、正に死んだように眠るのだ。しかも騒音防止と彼の祖父への牽制も兼ねて、結界もしっかりと張ってある。
そう言えば、こんなに簡単に窓の鍵を開けられるのも不用心で問題だなぁと、彼ー正守は思った。尤も念糸を使って鍵を開け、弟の部屋に忍び込む人間なんて俺くらいだろうと考え直す。自分の家なのにまるで泥棒のようだと彼は笑った。


目的の人物は予想通りぐっすりと眠り込んでいて、ちょっとやそっとの事では起きそうにない。ゆっくり近づき、結界の前に立つ。
布団の周り1mくらいまでを囲った結界に、彼は一瞬だけ考えた。
消したり壊す事は容易に出来る。だがそれでは衝撃で弟が目を覚ましてしまうだろう。
手をかざして探りを入れると、どうやらその結界の対象は祖父だけに限定されているようだと気付いた。試しにそのまま手を伸ばすと、難なくすり抜けてしまう。
まさかこんな深夜に自分が来るなんて弟は思っていない。だから対象になってないだけなんだと分かってはいたが、拒絶されてはいないみたいで少し嬉しくなる。
慎重に気配を殺しながら、彼は弟の布団の横に座り込んだ。


口を少し開けて眠り込む弟の寝顔は、まだあどけないと言って良いほど幼い。
当たり前だ。彼はまだ14歳。義務教育だって終わってない中学生だ。
その弟に助けられた数日前の事を、正守は思いだしていた。


あの不思議な、絶界とは違う力。
全てを消し去る絶界とは異なり、消滅させる対象を選べる白い光。
いや、消滅させる対象を、というよりは。守る対象を選べる力なのだろう。
温かな光だった。まるで良守そのもののような、鮮烈ながらも柔らかな日差しのようだった。
それは俺には決して持ち得ないものだ。

ーだからなのだろうか。こんなにも、お前が欲しいと焦がれてしまうのは。



起こさないように細心の注意を払って、そっと髪に手を伸ばした。
だけど触れそうになる直前止まってしまう。
弟が起きている時なら、もっと気楽に触れられたかもしれない。
巫山戯あう事など滅多にない兄弟だけど、からかいながら頭をぽんと叩く、それくらいは出来るのかもしれない。
だけど眠っているお前に触れる事は、こんなにも難しい。
触れてはいけないもののように感じてしまうから、余計に指先が躊躇う。

触れたら汚してしまいそうだからか。
壊してしまいそうだからか。
それとも、歯止めが利かなくなりそうだからか。


何の歯止めなんだか、と思わず自嘲した。
こんな風に考えてる時点で、俺はすでに末期らしい。
本当はもっと前から気付いていた自分の気持ち。雁字搦めに囚われている事を認めたくなくて意味のない悪足掻きをしていた。どこかで無駄な努力だと気付いてもいたけど、それすら認められなかった少し前の自分は、どうしようもなく愚かだったのだろう。
以前はお前の事を考えると愛しさと同時に苛立ちを感じていた。だが苛立っていたのは掴めていなかった自分自身の気持ちだったのだと、ようやく気付いたから。
今はもう、何の衒いもなく心が伝えてくる。
ー俺にはお前が必要なんだと。




数回の躊躇いのあと、ようやく髪に触れる。
固くて少しくせのある漆黒の髪。外気に触れてひんやりとしていた。
だがそれも、移った体温で少しずつ温められていき、それだけで満たされていくような不思議な気持ちになる。

あの時、言葉に出来ないような疲労と焦りの中、一度は諦めてしまった。
それを呼び戻してくれたのはお前だった。
出口の向こうにあるはずの、大事だった何かは、お前の姿。


良守、俺は決めたよ。二度と間違えない。生きる事も諦めたりしない。
最後の瞬間まで足掻き、見苦しくても生き抜いてやる。
目的を果たすその為に。何より、生きてお前を見続ける為に。
死ぬということは、お前に会えなくなるという事だ。
生きるということは、お前の傍にいる事が出来るという事だ。
俺は生きて、お前を愛し続けたい。それも望みだったのだと思い知った。



夜明けまであと少し。
明るくなる前にこの場を離れなければ、夜行に戻るのが遅くなってしまう。
今日だって仕事は山積みで、動きを止める訳にはいかない。
解ってはいるのだが…、何とも離れがたかった。

長く顔を見なかった訳じゃない。
別れたのなんて、本当はたった数日前の事。それなのにこんなに離れたくない。
会いたくて深夜忍んで来た上に、傍にいたくて離れたくないなんて、まるで恋い焦がれる少女のようだと思うと我ながら可笑しくなる。



弟は未だぐっすりと眠っている。
ここに自分がいる事に気付いたら、どんな顔をするだろうか。
慌てて驚いて、いつものように悪態をつく顔を見たいとも思うし。
このまま穏やかに眠る姿を見続けたい、とも思う。
そんな自分の矛盾に気付いて、正守はまたこっそりと笑った。











2007.5.12

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