優しい微睡み
その日、正守が実家に帰ると家の中は静まりかえっていた。 「ただいま…?」 鍵は開いている。なのに返事もない。おかしいな、と思っていると奥から微かに最愛の弟の気配。 なんで家の中でこんなに気配を殺してるんだろう、とその気配を追って居間に向かうと何やら違和感を感じた。不思議に思いつつ、襖を開ける。 「良守、いるのか。」 「おう、お帰り兄貴。」 小声で言いつつ振り向いた弟は、口に人差し指をあて、静かに、と目で訴えた。そしてすぐに視線を戻してしまう。 弟の視線の先には大きなバスケットがあった。近寄ってみて先程の違和感の正体を知る。 バスケットの中で、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っていたのは赤ん坊だった。生後10ヶ月くらいだろうか。 「…これ、お前が生んだの?」 正守の言葉に再び振り返った良守は、見事に眉間に眉を寄せていた。寝言は寝て言え、と素っ気なく言って、また赤ん坊に視線を戻す。 その隣に座り込んで正守は赤ん坊を覗き込んでみた。 「弟妹が増えるかもって話は聞いてないんだが。」 いくら年中日本全国を飛び回っていて家には寄りつかないとはいえ、母は弟達を生む時にはちゃんと家に帰ってきていた。 それにー、この子供には何の力も感じない。墨村の、結界師としての血脈の流れを受け継いでない、極普通の当たり前の赤ん坊だ。 「うちの子の訳ないだろ。父さんがご近所さんから預かったんだよ。」 面倒くさそうに良守が説明する所に依ると、3軒隣の若奥さんの隣町に住む両親が風邪でダウンしたのだそうだ。 SOSの連絡に駆け付けたくても、小さな赤ん坊連れでは看病もままならないし、風邪がうつっては大変だ。そこで修史に頼みに来たらしい。長年墨村家の主夫として3人の男の子を育て上げた修史は、その温厚な性格のままご近所付き合いも上手だしウケも良かった。 「夕方には旦那さんが会社から帰って来るし、明日は休みだから面倒見れるんだって。だからそれまで預るんだってさ。」 ふ〜ん、と頷きながらふと気付いた。預かった当の父はどうしたんだ。 「父さんは?」 「この子が良く寝てたから、今の内にって買い物に出掛けた。兄貴が帰って来るからって張り切ってたぞ。」 「それでその間お前が見てたのか。」 その言葉に小さく頷く良守。組んだ足に手を乗せ頬杖を付いて、赤ん坊を見ている。 「すげーよな、こんなちっさいのに動いてるし。利守の小さい時を思い出してた。」 そう言う良守の顔は嬉しそうで、同じ様な事を考えていた正守も思わず微笑む。彼が思い出していたのは良守の小さい頃だったが。 初めて自分に弟か妹が出来ると知った時、生まれてきた弟を見た時、正守は確かに喜んだ。病院から帰ってきた母の腕に抱かれた小さな命。すやすやと眠る良守に、恐る恐る伸ばした指をしっかり握り締められた時の衝撃。こんなに小さくて壊れそうなのに、そのぎゅっと握り締める力の強さに純粋に驚き、またその姿が正守を放すまいとしているようで愛しく感じた。 ーその右手に自分には出なかった方印が出ている事、そして祖父が隠しようのない程の喜びの中で、複雑そうに自分を見る瞬間がある事に気付いたのはそのすぐ後の事だ。 あの瞬間から全てが始まった。ただ愛おしむだけで良かったはずの弟に対して、時には憎しみかと勘違いしそうな程の感情を抱き悩み葛藤し、納得するまでには随分と遠回りをした。 たけど、と正守は思う。もし良守の手に方印がなければ、自分達はどうなっていたのだろう。もしかしたら普通に仲の良い兄弟で終わっていたかもしれないのだ。 今の正守にとって、良守以上に心を占める存在が他に現れるとは思えない。だがそれも、複雑に絡み合った感情の末ゆえの事だ。 仮定の話など無意味だと分かっていたが、正守の中で良守の存在が大きい分、つい考えてしまう。つらつらと自分の思考に囚われて、正守はぼんやりとしていた。その間も良守は飽きもせず赤ん坊を嬉しそうに見ている。 その時、よく眠っていたはずの赤ん坊の眉が歪んだ。 「…ふぇ。」 「「あ。」」 赤ん坊が発した小さな声に、二人の少々間抜けにも聞こえる声が見事に重なる。 危惧した通り、次の瞬間には赤ん坊の大音量が部屋に響き渡った。 「うわ、どーしよ起きちゃったよ!」 おーい泣くなー、と良守は赤ん坊の手を取ったり頬をつついたりしている。それを正守が呆れたように見た。 「そんな事してたって泣き止まないだろう。抱っこしてやれば?」 昔利守を抱っこしたりしてただろ、あんな感じで、と言われて良守が慌てる。 「だってそんなの大昔の事だし、こんなちっちぇの恐いだろっ。」 「大丈夫だよ、首も据わってるんだし。赤ん坊って結構丈夫だぞ。」 「そんな事言ったって…。」 躊躇う良守だったが、赤ん坊の泣き声はどんどんボリュームを増していく。このままだと喉が潰れてしまうんじゃないかと心配になった。 えーい!と半ばヤケクソな気持ちで赤ん坊の脇に手を差し入れ、恐々と持ち上げてみる。 「ほーら、高い高いー。」 揺すったりしてみるが赤ん坊は泣き止まなかった。顔を真っ赤にしながら泣き叫ぶ様子に、良守の方が泣きたくなってくる。それを見ていた正守が小さく溜息をついた。 「それじゃ返って不安になるって。ー貸してみろ。」 そう言うと正守は良守の手から赤ん坊を取り上げ、そのまま片腕で抱っこした。正守だと片腕でも安定している。 「おしめじゃ無さそうだな。ミルクはいつやったんだ?」 「え、ああ、ついさっきだよ。それで寝ちゃったんだから。」 良守の言葉にそう、と呟き、正守は右腕の中にスッポリと収まった赤ん坊のお腹をポンポンと軽くたたく。するとその規則正しいリズムに安心したのか、赤ん坊の声が次第に小さくなり、やがてむずがるくらいになった。 「夢でも見て目が覚めたのかもな。赤ん坊ってさ、人の温もりとか安定感が大事なんだ。安心すればまた寝ちゃうよ。」 正守の言う通り赤ん坊はウトウトとし始め、やがて小さな寝息が聞こえてくる。 「…すげえ。兄貴、慣れすぎ。」 思わず感心して声を上げる良守。その様子にニヤリと正守は笑う。 「甘いな良守、7歳の年の差を考えろ。俺は一通りお前と利守の世話をしてるんだぞ。それこそオムツの世話からお風呂まで。」 勝ち誇ったように笑う兄に、良守は一歩後ずさった。 その手際の良さは父譲りだったのか、生みの親の守美子よりも上手だったくらいだ。 正守はいつでも子供がもてるわねぇ、と笑って言った母の顔を思い出す。 「お前さぁ、結構夜泣きが酷かったんだよね。烏森から帰ると、母さんが寝不足な顔して庭でお前を抱っこしてたりしてさ。なんでか俺が抱くと泣き止む事が多かったから、よく代わったりしてたんだ。懐かしいなぁ。」 その頃を思い出したのか、楽しそうな正守を見て良守が眉を上げた。不機嫌そうなその様子に構わず正守は続ける。 「小さい頃なんか、お前凄いお兄ちゃんっ子だってご近所でも有名だったぞ。近所のおばさんに、「よし君はお兄ちゃんが大好きなのねぇ」って聞かれて「うん、ボクにいちゃん大好き!」なんて言ってさ。 あの頃の良守は可愛かったなー。」 「嘘だっ!あーもう余計な事思い出すなよ、クソ兄貴!」 「…あんなに可愛かったのに、今ではクソ兄貴だもんな。月日って残酷だよ。」 「ふん、悪かったな、昔と違って可愛くなくて。」 「いや、良守は今でも可愛いんだけどね。」 さらりと言われた台詞に良守が真っ赤になる。その表情に正守が微笑んだ。 「昔とは違う意味で、可愛いよ。」 そう言いながら正守は横に座る良守の髪に、軽くキスをする。 突然のキスにバッと髪を押さえ、慌てて正守を見る良守。顔は赤いまま小さな呻り声を上げて、それからガックリと頭を垂れた。 「…中学生になった弟に可愛いって、お前頭おかしいぞ。」 「そんな事ないと思うけどなぁ。良守のどこが可愛いって語り出したら日が暮れると思うけど、聞きたい?」 「絶対聞きたくない!」 そのまま耳を手で塞いでしまう良守に、正守はククッと笑った。そういう仕草ひとつひとつが可愛いんだと、本人は気付かないものなんだろう。 正守が残念だな、と呟きながら眠ってしまった赤ん坊をバスケットに戻すのと、買い物袋を抱えた修史が帰宅したのはほぼ同時の事だった。 結局それから30分ほどして、赤ん坊の父親が仕事を早めに終わらせたと言って墨村家に迎えに来た。助かりました、御礼はまた改めて伺いますと恐縮する若い父親に、修史が気にしないでと応対している。何度もお辞儀をしながら帰っていく親子の後ろ姿を、良守はぼんやりと見送った。 「二人共今日はありがとうね。助かったよ。」 「俺はそんな大した事はしてないけど、父さんも久しぶりに子守なんてして疲れたんじゃない?」 嬉しそうに言う父を正守が労ると、全然平気だよ、と修史が答える。 「二人が手伝ってくれたし、あの子大人しかったから。あ、そういえば良守昼寝出来なかったね。まだご飯まで時間あるから、少し休んだら?」 「う〜ん、そうしよっかな。」 修史の言葉に大人しく頷いて良守は自室へと向かった。睡眠不足なのは明らかだったし、仕事に差し支えたら困る。 その後ろに当たり前のように兄が付いてくるのに、自室の襖に伸びた良守の手が止まった。 「…俺、寝るんだけど。」 「うん、寝て良いよ。俺も一緒に寝るし。」 「何で一緒なんだ。お前の部屋はそっちだろ。」 「気にするな。隣の部屋なんだし、壁一枚隔てて寝るかどうかの違いだろう。」 何も何かしようと言ってるわけじゃないんだから、と言うと良守が盛大に眉を顰めた。 「お前が言うと、別の寝るに聞こえるんだよっ。」 「そりゃ良守がそういう期待をしてるからじゃ…ってはいはい、お兄ちゃんが悪かった。」 無言で殴りかかってきた良守の拳を難なく受け止めて、正守が降参する。ついでにそのまま手を引いて、さっさと部屋に入ってしまった。 「せっかく帰ってきてるんだし、一緒にいたいだけなんだからさ。添い寝くらいさせてよ。」 手を取ったまま覗き込むように見つめて言うと、良守がグッと詰まる。 以前とは違い、空いた時間に会いに来てくれる正守。だがそれはいつも短い時間で。こんな風にちゃんと帰ってきてゆっくり出来るというのは、やはりそう頻繁ではない。そして2〜3日もすれば、また夜行へ戻ってしまう。 「…父さんが来る前に、ちゃんと起こせよな。」 少し考えた後の承諾の言葉に、正守は了解、と答え良守の頭を撫でた。部屋の隅に畳まれた布団を乱暴に敷くと、良守はさっさと横たわる。 二人で寝るには少々狭いが、くっつけば寝れないわけでもない。弟の横に滑り込み布団を引き上げて、正守はまだ細く小さな体を抱き寄せる。すると腕の中の良守がフッと息を漏らし体から力を抜いた。ただそれだけの仕草なのに、安心して身を委ねてくれていると感じ、嬉しくなる自分はおかしいのだろうかと正守は考える。誰かの体温を愛しいと感じるのなんて、良守以外にはなかったことだ。 そっと髪を撫でていると、寝付きの良い弟は目をとろんとさせた。すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。 気持ちよさそうな寝顔を眺めていたいと思いながら、その寝顔に誘われるように、やがて正守も優しい眠りに落ちていった。 |
バカップルというより新婚さんいらっしゃい
2007.9.20
NOVEL