Sweet time
その日その時家族は出払っていて、家にいたのは良守ただ一人だった。上機嫌でお菓子の家の設計図を描いている所に玄関先から声が届く。 良守にとって聞き間違いようのない低い声。あれ?と思いながら玄関に向かうと、そこにいたのは紛れもなく兄、正守だった。 「随分早かったんだな。」 今日帰ってくるというのは聞いていたけど、兄が戻ってくるのは今迄大抵夜だったので、こんな時間に帰宅するのは珍しい。 すると正守は仕事後の雑用が早く片付いたからね、と言って手に持っていた物を良守に手渡した。 土産だよと言われたそれは、シンプルな白い箱と、薄紫の高級そうな和紙に包まれた箱。 「みんなはいないのか?」 「ああ、父さんはさっきまでいたんだけど。買い物に行ったみたいだ。」 良守の言葉に、正守がそうかと答えながら振り返ると、弟は頻りに白い箱を気にしている。 「白い方の中身はタルトだよ。和紙の方はお爺さん向けの煎餅だけど。」 弟の様子に苦笑しながら言うと、良守の顔に隠しきれない笑みが浮かぶ。 「ちょうど良い時間だし、お茶にしようか。」 そんな魅惑的な言葉に逆らう気持ちは、良守には毛頭なかった。 「前は和菓子ばっかり買ってきてたくせに、この頃は洋菓子も多いな。」 まあ俺は嬉しいけどさ、と戸棚から皿を取り出しつつご機嫌な弟の姿に、正守の顔に自然と笑みが零れた。 「だからだよ。」 「あ?なにが?」 意味が分からない、と言う弟の手から皿を受け取ると、正守はテーブルに置く。 「お前ってさ、好きな物食べてる時やたらと可愛いんだよね。それが見たくて洋菓子にしてるんだ。」 「へ?」 呆気に取られたように口を開けて、ポカンとする良守に笑ってみせた。 「前はさー、お前のそういう顔見るのが複雑でね。変に落ち着かないっていうかさ。今考えると当然なんだけど。好きなヤツが可愛い顔してたら、男なら落ち着かなくて当たり前だし。」 いやー、俺も苦労してたよねぇ、と言うと良守の顔が赤くなった。そんな弟ににっこりと微笑む。 「ケーキ作ってる時の顔も幸せそうで好きなんだけど、それ見れるのってタイミングだろ。俺が家にいる時作ってるとは限らないからね。でもお土産なら確実に見れる。」 実は下心ありなんだ、と笑って言う兄を良守は胡乱な顔で見た。頬は真っ赤に染まったままだったけど。 「〜っ、この、変態スケベ!」 「男なんてそんなものだよ。お前だって男なんだから分かるだろ。」 これくらい可愛いものでしょ、下心としては。 そう平然と言われてしまえば確かに、と良守も思ってしまう。大体にしてプレゼントや土産なんて、相手に喜んで欲しくて買う物だ。 良守は複雑な顔で目の前の箱を見た。手に持っていたナイフも眺めて、それをテーブルに置く。 「あれ、切らないの?」 「…食べる気失せた。」 少しげんなりとしたように良守は呟いた。本当にこの兄は人が悪いと思う。食べてる顔が可愛いだなんて言われて、どんな顔で食べれば良いというのだろう。食べ辛いことこの上ないではないか。 二人の関係が変わってから分かった事だが、どうも正守は好意を示す事を躊躇わない。事ある事に「可愛い」だの「好き」だの、恥ずかしい台詞を口にする。 それでこっちが照れたり慌てたりするのを見て楽しんでる節があって、心底ムカつく時がある。正守は「以前は言えなかったから反動がきた」と言っていたが。 7歳上で経験値も違う正守に、こういう面でも敵うはずもないのは分かっているが、手の上で躍らされてるようで悔しい。またからかいながらも本気で言ってる事が分かるのもムカつくのだ。男が可愛いと言われて嬉しいものか。 …まあ、それがすっごく嫌ってわけでもないけど。 小さく溜息をついた弟を見て、正守はニヤリと口の端を上げた。 「へえ、食べないの。そりゃ残念だなぁ。ここのケーキものすごーーーく美味いのに。」 正守の言葉に、良守の眉がピクリと動く。それを横目に見て正守は内心ほくそ笑んだ。 「絶対良守も気に入ると思ったんだけどな。食べる気がしないなら仕方ないけど。」 この野郎いけしゃあしゃあと。良守の中に殺意が芽生える。 が、やはり気になって改めてケーキの箱を見ていると、ある事に気付いた。 「あれ、これ店名とか書いてない…。」 大抵は箱に店名が印刷されてたり、単なる白い箱でもシールか何かで店名と賞味期限が表示されてるものだ。だがこの箱は真っ白のままだった。 不思議そうな良守に、正守が説明する。 「これね、ケーキ屋さんのじゃないんだよ。最近見つけた喫茶店のでさ。本来テイクアウトはしてないんだけど、特別に作ってもらったんだ。」 「へぇ…。」 そう言われると益々中身が気になった。正守は結構舌が肥えてるから、今迄の土産は和洋問わずどれもとても美味しかった。良守だって密かに楽しみにしていたくらいだ。 その正守がわざわざ頼んだくらいだから、よっぽど美味しい店なのだろう。 ぜひ中身が見たい、というか食べてみたい。でも正守の前で食べるのは躊躇われる。悶々と葛藤していると、それを見ていた正守が苦笑した。 「悪かったよ、変な事言って。気にしなくて良いから食べてみろって。」 何だったら俺は部屋にでもいってるし、と言われて思わず良守は正守を見た。 「それね、弟に食べさせたいって言ったらマスターが作ってくれたんだ。だからお前に食べてもらわないと、マスターに悪いだろう?」 とにかく開けてみろと言われ、良守は箱を開けてみた。目に飛び込んで来たのは、小振りながらホールのままのタルト。多分洋梨だろう、控えめな色合いながらもツヤツヤと輝いている。タルト地の色がまた何とも言えない綺麗な焼き色だった。一目でこれは美味いだろうと思わせるその姿は、色々なケーキを見てきた良守も一目惚れしそうな勢いだ。 「本当にケーキの美味い店でね、全部マスターの手作りなんだ。その中でもこのタルトがダントツだったんだよね。絶対お前に食べさせたくてさぁ、無理言っちゃったよ。」 じゃあ俺は席を外してるから、と身を翻そうとした正守の着物の裾を咄嗟に掴む。 「…良守?」 不思議そうに見る正守に、良守はどう答えようか迷う。わざわざ自分に食べさせたくて頼んでくれたというタルト。それはとても嬉しいと思う。それに、からかわれるのは嫌だけど、いなくなるのも嫌だった。こんな風に正守が家にゆっくりいるのだって久しぶりなのに。 でもそう素直に言えない自分がもどかしい。地団駄踏みたい気持ちというのはこういう時を言うのだろう。 「そんなに美味しいなら、お前だって食べたいだろ!」 考えに考えて、やっと良守の口から出たのはそんな言葉だった。顔を真っ赤にして睨む弟に、正守が一瞬呆けたような顔になる。だが次の瞬間弟が本当に言いたい事に気付く。「一緒に食べよう」と言えない天の邪鬼なところは相変わらずだ。 口調とは裏腹に、必死な顔をした良守に、正守は目を細めて微笑んだ。 紅茶を煎れ、タルトを6つに切り分ける。その内の2つを自分と兄の皿にのせ、浮き浮きとした気分で一口分を食べた瞬間、良守は驚いた。 何だこのタルト、めちゃくちゃ美味いっ!! パートシュクレにはアーモンドプードルがたっぷり入っているのか、サックリとした食感の後口の中でホロリと砕ける。フィリングにもアーモンドプードルが使われていてコクがあった。洋梨の火の通りも絶妙だし、上に塗られたコアントロー入りのジャムの香りも良い。 完璧だ。完全に良守の好みの味だった。未だ嘗てこんなに美味いタルトには出会った事がない。見たこともないマスターのファンになってしまいそうだ。 うっとりと嬉しそうな顔をする良守。正守はそれを成る可く刺激しないように見ていた。 いつもの事ながら本当に良守はお菓子に関する事では表情が違う。同じとろけそうな顔でも、正守に抱かれている時の顔とはまったく違った。頬を上気させながら、涙を浮かべて快楽に溶ける意外に艶っぽい姿も良いけど、こういう時の良守は年相応の可愛らしさがある。 思わず頭を撫でてやりたい、と思ってしまうようなそんな愛らしさだ。こんな時だけは正守も、兄が弟に向ける感情で良守を見る事が出来る。まあそれだって利守に向けるものとはまったく違うけど、恋人としてだけの感情ともまた少し違う、優しく穏やかな時間。正守にとってそれは大切なものだった。 何年も離れたまま滅多に会う事のない日々。それは想いを自覚してなかった正守には必要な時間だったけど、悔やむ気持ちがまったく無い訳じゃない。もっと早く気付いていれば。もっと早くこの気持ちを受け入れていれば。少しでも多くの時間を、共に過ごせたのではないかと。 離れた事に対しての後悔はない。遅かれ早かれ、いずれ家を出る事を選んだはずだから。それでもと思ってしまうのは、最早仕方ない事なんだろう。 普段は冷静でいられるのに、こと良守に関しては考えすぎてしまう自分に正守は苦笑した。 その小さな声に、良守がピクリと反応する。自分を見て笑ったと思ったのだろう、見る見る間に機嫌が急降下していくのが分かった。 訂正したって信じないだろうなと思い、正守は手を付けてなかったタルトにフォークを突き刺した。 「うん、やっぱり美味いな。」 胡散臭そうにこちらを見る良守にもう食べないの?と声をかければ、憮然とした顔でまたタルトを食べ始める。途端に弛んでいく弟の頬を見ながら、正守は内心吹き出したいのを必死に堪えていた。 ここで笑えば良守も本当に怒り出してしまうだろうし、二度と一緒にお菓子を食べてくれないかもしれない。それは正守としても寂しいし、避けたい事態だった。 笑いたいのに笑えないというのはちょっと辛いけど、腹筋に力を入れて耐える。表面上は平然とする事に成功しながら弟に声をかけた。 「良守、美味しい?」 「……………………………美味い。」 ちょっと躊躇った後、ケーキに対して嘘はつけないと思い良守は正直に答えた。それを見た正守が嬉しそうに笑う。その表情を見て良守の胸がドキッと跳ねた。正守は幸せそうに微笑んで良守を見ている。 ああもう!とどうしようもない気持ちで、多分赤くなっている顔を隠す為視線をケーキに落とした。 その表情は卑怯じゃないのか、と良守は思う。あんな、優しい目で見られたらどうにかなってしまいそうだ。 良守を呼ぶ声が、見詰める目が、お前が好きだよと言われているように感じる。そんな風に感じる事自体が恥ずかしいと思うのに、決して良守の勘違いではないのが更に恥ずかしい。 ひょっとして正守は気付いていないのだろうか。自分を見る時、どんな顔をしているのかを。恋人としても兄としても、他では見せないような甘い笑顔。自覚なしに見せてるとしたら、そっちの方が厄介だ。態とならこちらだって反発するだけで良いのに、無意識でそんな顔されたらどうしようもない。 さらに厄介なのは、そんな正守の態度を嬉しいと思ってしまう自分自身の心だ。 …何だかんだ言って、良守だって正守が幸せそうにしてくれていたら嬉しい。 ただ、長年ギクシャクとした雰囲気が続いていてそれが当たり前だったから。どうもこう、甘い雰囲気というのに慣れないのだ。兄弟として甘やかされるというのも慣れていないし、恋人同士としてのそれ、なんてなるとそれはもう恥ずかしいなんてレベルじゃない。 最初の頃はその内慣れるのかな、なんて思っていたけど。どうもお互い誤解していた頃の気まずい期間が長すぎたのか、単に自分の性格なのか、いつまで経っても慣れる気がしない。 それに比べてこの状態に順応しまくり、家族の前と自分の前で性格を使い分けてる兄が恨めしかった。何故みんなはこいつの本性に気付いてないんだ。意外と甘ったれでベタベタしてくるし、恥ずかしい台詞も垂れ流しだし、堪え性もないし! とはいえそれは全て良守といる時だけの正守の姿で、他の人間が知らなくても仕方ない。 そしてそういう正守を見れるのが自分だけ、というのも決して嫌なわけではなくー。 そんな自分の考えに没頭していた良守に、正守が声をかけた。 「良守、次帰って来る時のお土産なんだけど、ガトーショコラとチーズケーキだとどっちがいい?」 どっちもお薦めで俺には決められなくてさ、と楽しげに言う正守に、先程までの事は吹っ飛んだ良守は真剣に考えはじめた。これだけ美味しいタルトを作る人のケーキ。どっちも食べたい。 「ああ、心配しなくてもその次は残った方のケーキを持ってくるから。とりあえずの順番な。」 笑いながら付け足す兄に見透かされてるな、と思うと同時にその優しく笑む顔を見ていられなくて、良守は頬を染めて俯いた。 そんな弟に、こんな可愛い姿を見れるなら、毎回あの店のケーキを土産にしたいと思う正守。 …こういうのがきっと、「より惚れた方が負け」というやつなんだろう。 そう思っているのはお互い様だという事に、二人は気付いていない。 |
密かにSさんに捧ぐバカップル
2007.7.5