愛しきアマデウス
「お前さ、嫌ならちゃんと拒めよ」
「…は、何を…」
思うまま良守の体を貪る動きが急に止まる。
しかしそのおかげで少しだけ余裕が出来た良守は、自分に覆い被さる男を見た。
薄暗い部屋の、僅かな蛍光灯の灯りを背にした正守の表情までは見えない。
体内で脈打つ存在がまともな思考を遮る。それでも熱に浮かされながら言葉を絞り出した。
「嫌だって言っても、構わず押し倒すヤツが今更なんだよ」
いつも前触れもなく現れるくせに。
今夜だって仕事で疲れてたから、最初は拒んでいた。
体格も体力も違うから、こいつの相手をするのはいつだって大変だ。拒みきれない俺も大概だが。
口元を尖らせると幼さが増す。弟のそんな表情に、正守は目を細めた。
「そうじゃない。本当に嫌ならもっと本気で拒めって言ってるんだ。俺を殺すくらいの勢いで」
言われた言葉は一瞬、良守の頭の中を素通りしていく。
殺すって、誰が誰を…?
ぼんやりとした目で見上げてくる潤んだ瞳に、正守は小さく苦笑した。
「このままだと、勘違いしてしまうだろ」
ーお前に、ほんの少しくらいは好かれてるんじゃないかと。
その言葉に良守は目を見開いた。
「…ま…っ、ーーーーーーーーっ!!」
その名を呼ぼうと微かに口が開いた瞬間、一気に奥まで進入されて声にならない声が喉奥から漏れる。
言おうとした言葉は、激しく体内を蹂躙する熱に遮られて、とうとう伝えられないまま。
良守は意識を手放した。
気が付くと、兄の姿はなかった。
それ自体はよくあることだ。大抵兄は夜が空けきる前に夜行へ帰る。
そして殆ど一睡もしていない事など周りに悟らせずに、飄々と仕事をこなすのだろう。
だが今回だけは目が覚めてその姿が無かった事に、良守は苛立ちを感じていた。
昨夜、いや今朝のあの台詞は一体なんだ。勘違いだと?殺すくらいの勢いで拒め?
今更何を言ってるんだとしか言いようがないではないか。
「…次に会ったら殴ってやる」
密かな決意を呟き、良守は僅か痛む腰をさすりながら布団から身を起こした。
夜行の頭領を勤める正守は忙しい。以前から家に帰って来る事など稀だった。
二人の関係が変わってからは帰省する頻度は多少増えたが、かなり間が空くことだって珍しくない。
だが幸か不幸か、今回は2週間経たずに帰ってきた。
帰ってきたというか、再会の場は実家ではなく烏森だったのだが。
「相変わらず力配分と効率が悪いな」
派手に暴れた妖と、それを滅する為に振るった良守の力で、ボコボコに穴の開いた校庭。
時音には呆れられるし、斑尾は自分の仕事は済んだとばかりにさっさと帰ってしまった。
一人残された良守は仕方なしに式神での修復作業に勤しんでいた。
その殆どを式神で修復し終えて息をついた所で掛けられた声に、良守は不機嫌そうに目を細める。
殆ど足音もさせずに近づいてくる長身の影。
良守は式神の使役を解くと、自分から正守の正面に向かい合いー。
そのまま何も言わずに、兄の顔面目掛けて拳を振り上げた。
「…これってまさか、お前流のお帰りなさいの挨拶?」
良守なりに渾身の力を籠めたはずのそれは、あっさりと兄の手に阻まれてしまう。
易々と殴れるとは思っていないが、掴まれたまま解けない自分の腕に、兄との力と体格の差を感じて良守は舌打ちした。
「うるせー、何でも良いから黙って殴らせろ」
掴まれた腕を解こうと藻掻く良守に、正守は怪訝な顔になる。
「いくらなんでも、再会早々殴られる覚えはないぞ。黙って殴られる趣味もない」
いつも多少からかってる覚えはある兄である。だが今夜はまだ何もしていない。
強いて言うなら何もしなさすぎたくらいか?一人で修復する良守を手助けもせず。
だが手助けなんかしようものなら良守は逆に怒り出すだろう。
訝しがる兄を見上げ、良守は苦々しい気分を隠そうともせず睨み付けた。
いつも通りの兄。あの夜の自嘲したような表情と言葉を思い出す度、こっちは苦しい気分になっていたのに。
「…この間の晩、自分が言った事忘れたのかよ」
「この間の晩…?」
まったく心当たりがない、といった風の正守の表情に良守の苛立ちは頂点に達した。
「言ったんだよ!本気で拒めって、お前を殺すくらいの勢いでって!」
怒鳴る良守に一瞬唖然として、正守の指から力が僅かに抜ける。良守はその隙を見逃さず腕を解いた。
「それは忘れちゃいないが…。なんでお前、そんなに怒ってるの?」
正守としては、あれは本心からの言葉だった。
良守が昔、常日頃「嫌い」だと言っていた言葉を信じていたわけではない。
自分の事は苦手だろうが、気に掛けてくれているのは知っていた。本心から嫌われてはいないと。
今までの言動から考えると、嫌われていないだけでもましだというのに。それでは満足できずに。
自分に対して負い目を感じている事も、拒みきれないだろうという事も承知の上で無理矢理に抱いた。
家族として、兄として有り得ない憎まれて当然の行為。
愛してるから抱いたなんて、何の言い訳にもならない。
それなのに初めての時からその後も、良守が正守を拒絶する事は一度もなかった。
その時の状況によって軽い抵抗を見せる事はあっても、それは拒絶とは違う。
ちょっと強めに押し切ればそのまま流されてしまう程度の、そんな抵抗はないと同じだ。
それが正守には不思議で仕方なかった。
ー憎んでいるだろう?理不尽な形で体を暴かれて、本意ではないことに付き合わされて。
お前が俺に持つ負い目なんて吹き飛ぶ程に、それは許せない行為のはずだったのに。
どうしてお前はいつまで経っても、俺を憎悪の眼差しで見ないんだ。
そんな気持ちから出た言葉。いつまでも拒まないお前に対しての疑問。だが良守の今の怒りは憎しみとは違う。
憎しみを向けられるならともかく、怒られるとは思わなかった。
心底分からない、という様子の正守に、良守の苛立ちは増していく。
いつだって聡くて頭の良いこいつが、なんでこんな事も分からないんだ。こいつ本当に夜行の頭領なのか。
いや、頭領は関係ないかもしれないけど、普段大勢に慕われ心酔されている男とは思えない。
術に関する、その強さと聡明さは自分も良く知っているけど。
…こういう面では意外と鈍いのかな。
大体最初からして好きだと告げる前に襲ってきたようなヤツだ。
そう考えると、ほんの少しだけ良守の気持ちも収まった。
仕方ねーなと呟きながら、頭をガリガリと掻く。口に出すのは恥ずかしいんだが、このままだと話が進まない。
良守は意を決して口にした。面と向かってはとても無理だから、態とそっぽを向いて。
「なんで俺が、嫌いなヤツに黙って抱かれてなきゃいけねーんだ」
簡潔な言葉だった。その言葉の意味する所は明白で、だからこそ正守の思考は一瞬とまる。
嫌いなヤツなら黙って抱かれたりしない。それなら黙って正守に抱かれていた良守は…?
情けなくも呆然とする正守の目に、良守の後ろ姿が映る。
その耳が赤く染まっている事に気付いて、正守は一歩分二人の間合いを詰めた。
「…良守、お前さ。俺がお前の事好きなのは知ってるよね?」
ストレートに聞かれて、頬に熱が溜まるのを自覚しつつ良守は頷く。
「何度も聞かされたから知ってる」
「知ってるのに、俺には一度も言ってくれなかったわけだ」
「だってお前、一度も聞かなかっただろ。だから俺も言わなかっただけだ」
そっぽを向いたままのその素っ気ない言葉に正守は溜息をつくと、素早い動きで良守を腕の中に攫った。
「な、何すんだよっ、離せ!」
ジタバタと暴れる弟の動きを両腕に力を込めることで封じる。
背中越しに抱き締めたまだ幼さを残した体は、腕の中にすっぽりと収まった。
「つまり、お前だけ両想い気分を味わってたわけか」
「両想いとか言うなっ、気色悪いだろーが!」
照れてるのが丸分かりの悪態など可愛いとしか言いようがないが、正守は複雑な気分だ。
ふと腕の中の弟が身動ぎする。何かを話そうとしている様子に気付いて、兄は束縛を弛めた。
良守はその腕から完全に離れることはなく、正守に向き合う。
「俺だって色々悩んだんだぞ。最初がいきなりの無理矢理だったし、お前何考えてるのか分かんないしさ。
だけどあの時『好きだ』って言ったお前の言葉は本当だって、何でだかすんなり信じられたから」
それは恐らく本能的なものだったのだろう。
初めての夜、未知なる行為の痛みと快感に混乱しながらも、良守は正守の言葉の真実を感じ取っていた。
それでも自分の何処が兄に好かれているかなど考えもつかないからまた混乱して。
繰り返し抱かれる度、その執着に似た想いは自分へのものではなく、右手の方印に対してじゃないかと考えたりもした。
それでもお前が俺を好きだと言った、その言葉は嘘じゃないって、俺は知ってるから。
話ながら右手に視線を落とす。正方形の、痣というには奇妙な形の印がいつものように掌にある。
「散々考えて、考えるのやめにしたんだ。兄貴がこれに執着してるんだとしても構わない。
だってこれも俺の一部なのは変えようがないんだし、だったら兄貴の執着だって俺のものだろ?」
望む望まないに関わらず、すでに方印は現れた。動かしようのない事実として。
自分は自分でしかいられない。今更どうしようもないのなら、この宿命を受け入れるだけの話だ。
正守の執着が、彼の渇望した印に対してのものなのならー。
「一生俺を欲しがれよ。この印ごと俺に執着しろ」
睨むように挑むように、良守は兄を真っ正面から見据えた。
「ハ、ハハッ!!」
良守の言葉に正守は一瞬呆然とした後、口元を歪めたかと思うと急に笑い出した。心底楽しそうに。
それからもう一度良守を、今度は正面から抱き締めてその耳元に唇を寄せた。
「やっぱり良いよお前。多分俺は、お前のそういう所に惚れたんだ」
いつだって大事な所で迷いがなくて潔くて。その汚れをしらない清廉な魂に、心に闇を持つ者は惹かれてやまない。
『惚れたんだ』という言葉に反応して、良守の体熱が一気に上がる。その頬に正守は手を滑らせた。
「方印に対しての執着はないとは言えない。だがそれは、お前の手にあるからだ」
前から考えていた事がある。
方印がもし末の弟に手に出ていたとしたら。自分はここまで複雑な思いを抱いただろうか。
答えは否だ。恐らく今ほどの葛藤はなく、その事実を受け入れていただろう。
幼い利守の手助けをする事にそれほど疑問も持たず、家を出る事もなかったかもしれない。
7歳下の、いつも自分を慕って着いてきた弟。家族の誰よりも大切に思っていた。
守りたいと思ったその存在に方印は現れ、いつか自分を追い抜いていくのだと知った。
その瞬間、このままではいけないと感じた。
ここにいたのでは、同じような修行をしていたのでは駄目だ。きっとすぐに追いつかれる。
外の世界に出る事が必要だと思ったのはその頃だ。
強くなりたいと願ったのは、誰のためだったのか。
お前だからだ。全て、方印を持つのがお前だからこその葛藤であり執着だった。そして願いだった。
守るには、その相手よりも強い力が必要だ。弱ければ守るどころか守られてしまう。
例えそれが無い物ねだりだとしても、お前より強くいられるのなんて、後ほんの僅かな時だとしても。
足掻く事だけはやめられない。諦めたらその時点で全て終わるのだから。
もう少しの間は見守れればと思っていた。
それでも様々な事件のせいで、前よりも頻繁にその顔を見るようになって。
会う度に、欲しい、と思う自分の気持ちが大きく膨れ上がるのを感じた。
心が手に入らないならいっそ。
その体を一時でも手に入れて、憎まれてしまおうかと。その方が楽になれる、そんな思いに囚われて。
憎しみに近いくらい、表裏一体の愛しさに嘖まれながら狂ったあの夜からずっと。いや、それよりも前から。
お前は俺を受け入れてくれてたんだな。
ーそれは本当に嬉しいことだけど、同時にやはり悔しくもある。
「聞かなかった俺も悪いけど、もう少し早く知りたかったな」
抱き締められながら小さな溜息と共に耳元で呟かれる声は、何だかちょっとだけ寂しげで。
多分態となんだろうと知りつつも、僅かな罪悪感に囚われる。
「い、今知ったんだから同じだっ!」
「同じじゃないよ。俺はずっと、お前にどれだけ憎まれてるだろうって、恐々としてたんだぞ」
「嘘付け、お前がそんな可愛げのある性格してるかよ。大体憎まれそうな事するお前が悪い」
「そう言われちゃ返す言葉もないんだけどね…」
珍しくも弱気な台詞に、つい良守の仏心が動いてしまう。
「その、りょ…ぅ…おもいきぶん、とやらは、今から満喫すれば良いだろ」
真っ赤になって、ごにょごにょと小声で話す良守を見て、正守は口の端をニヤリと上げた。
「今から満喫して良いんだ」
見上げた兄の顔が悪戯っぽい笑みを浮かべているのを見て、良守の背中にサーッと冷たい物が走る。
「そうじゃなくて、今ってのは言葉の綾で!!今後っていうかこれからはってことでだなっ」
「俺は今、満喫したい。このままここで」
「こ、ここって、此処…?烏森だぞ、思いっきり外だぞ!?」
「大丈夫、俺達以外誰もいないし。対妖用の結界もあるから声も外に漏れないよ?」
何だったらこの周辺に多重結界張ろうか、と言う正守の顔は笑顔で真顔だった。
本気だ。紛れもなくこいつは本気だ。結界が必要なことをやらかすつもりだ。
良守は困ったように眉を下げた。
「…今のこの状態も、充分そういうのを満喫出来てると思う」
抱き締めあってお互いの体温を肌で感じて。それなら結界もいらない。何よりも。
「落ち着かないのは、いやだ」
良守の可愛らしい言葉に正守も考え直す。何と言っても弟はまだ14歳で、行為自体にも慣れていない。
いつもと違う所というのは、羞恥心を煽ってスパイスとしては悪くないとは思うのだが。
野外であり良守にとっての職場である烏森では、困惑も大きそうだ。あまり無理もさせたくない。
正守は良守の体を横抱きに掬った。
「うわっ!ちょ、お前…っ」
何するんだ、と怒鳴ろうとした良守の口が正守のそれに塞がれる。
思わず目を瞑り、そろそろと開けた良守の目に嬉しそうな正守の顔が飛び込んできた。
「家まで我慢するからさ、その代わり朝まで付き合ってくれよな?」
「え、朝までって…」
良守の顔から思わず血の気が引いた。こいつの体力に朝まで付き合うなんて厳しすぎだ。
弟のその表情に、言わずとも理解した正守が苦笑する。
「そう心配するな。無理はさせないよ。ただ今夜だけはお前と朝までいたいんだ」
そう言った正守がとても優しげで、あまりにも愛しそうに自分を見ていて。良守は頬を染める。
一緒にいたいと思ったのは自分だって同じだったのだから。頷くしかないではないか。
「ー俺の目が覚めるまで、隣にいてくれるなら…良いよ」
真っ赤になりながら小さく呟かれた良守の言葉に、正守は幸せそうに満面の笑みを浮かべた。
今まで見たことのない正守のその笑顔に、何故だか一瞬泣きそうになるのを堪えて。
良守は正守の着物にしがみつく手に力を籠めた。